「昔話法廷」がすごい -現実は全員が主人公のドラマである、ということ-

昔話法廷


が公式サイトで見られるようになっているので、見てみた。




■結論&結末を見る側に委ねている


ドラマ仕立てで始まるので、ドラマとして見ていると、この番組は、意外なタイミングで終わってしまう。
被告と原告の両方の見解や事件の概要が対話形式で説明されて、意外な事実が明るみに出て、両論併記がなされ、「さて、どうなる?」と思ったところでこの番組は終わるのだ。
ドラマにしたら「さてこれから気持ちよいすっきりとした展開が待っているんだろうな」と思うところで終わるのだ。


■今までの「先入観」をくつがえすための演出


「昔話法廷」を見ていて感じるのは、明かされてくる「双方の事情」がどちらも重く、時に「悪役」とされている方の事情のほうに共感できるくらい、というだったりする点だ。
すごくわかりやすく言うと、ちょうど「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」を見ているような感じなのだ。
「敵」として設定されていたはずのキャラクターの、のっぴきならない事情や、過去に何があったのかの経緯の説明を知るうちに、「今回起きたこと」だけを判断してすべてをわかったような気になっていいのか? と思い始めてしまう。




■「カニと修造」理論
これは、脚本家、映画監督、スクリプト・ドクターでもある三宅隆太氏の「カニと修造」理論にも通じる。


ドラマやストーリーにおける「描写による感情移入」の手法なのだけれど、詳しくはこちらの動画でも見ていただけるとわかりやすい。


宇多丸×三宅隆太:スクリプトドクターというお仕事(「カニと修造」理論)
(42分くらいから「カニと修造」理論)


続編 宇多丸×三宅隆太「スクリプトドクターとは何か?リターンズ」


文字起こしもされているのでこちらも。
映画監督・三宅隆太が語る「スクリプト・ドクターというお仕事」(3)


〜引用ここから〜
で、例えばなんですけど一つ例を言うとですね、
日本海の沖合にタラバガニの漁をしてる漁船があるとしますよね。
そこに松岡修造が乗っているとしますね。
まぁナントカ万才みたいな取材をしてると。
漁師さんたちが「ほら、とれたてのカニだよ!食べなさい!」って言って、
「ああ、美味しそうですね!じゃあ食べましょう!」って言って
脚をバサッと切ってですね、パカッと脚を割って、
プルプルの中身をギャッと食べて「ウワーッ、美味しいですね!」って
いうのを観た時にですね。
我々はカニではなくて、松岡修造さんの方に感情移入することになりますね。
そうすると、「わー美味しそう!お腹空いた!」ってなると思うんです。
ところが、ちょっとの工夫で価値観が逆転しちゃうのはですね。
その直前のシーンに、例えば海底のシーンがあってですね。
「カニ男さんのおうち」ってのがあってですね、
そこのベビーベッドにおしゃぶりをくわえた可愛いカニが寝てるとしますね。
そこにお母さんカニがですね、「ああよく寝てるわ」なんて言って、
「あなた今日はね、結婚して1年だから、今日は早く帰ってきてね」なんてことを
奥さんのカニが言ってですね、旦那さんのカニに「いってらっしゃい!」と、
「早く帰ってくるよ!いってきます!」言ってカニのお父さんが海の方に上がっていきました。
そして・・(笑)
宇多丸
まぁでもね、ファインディング・ニモ的なことですもんね。
三宅
まぁまぁそうなんですけどね。
そうすると、次に松岡さんが美味しそうにカニをブチャ!バカッっと折って、
プルプルの中身をガブッって食べたのが、
さっきは美味しそうと思ったのに「なんてことをするんだ!!」と
〜引用ここまで〜




また「カニと修造」理論が一番手っ取り早くわかるのは、このPVかもしれない。
Ken Ishii vs FLR / SPACE INVADERS 2003
ゲームの「スペースインベーダー」における敵キャラのインベーダーの立場に立って作られているこのPVは、徴兵によって「戦わされて戦死するインベーダーと、その家族の悲哀」について最も端的でノンバーバルに語っていると思う。


マリオよ、これを見ろ! お前が踏みつけてきたクリボーにも家庭があるんだぞ!(動画あり) | コタク・ジャパン


爆風スランプにも「平和な鬼が島に桃太郎一行が侵略!」みたいな歌があった記憶が…


似たような題材では「第9地区」とか、ドキュメントの「華氏911」 がそれに当たるのかな、と思う。




■現実のドラマは刑事モノのドラマのような感じではない、ということ


刑事もののドラマ「相棒」に、ときおり感じる「終盤で、杉下右京が善悪を語るキモチ悪さ」のストレスを、この「昔話法廷」は分析してくれていると思う。
「XXだからって、あなたがYYをしていいわけではありませんよ!!」と杉下右京が激昂するシーンに、「いや、そうじゃないだろ…」と違和感を感じたことがある人も少なくないと思う。
「相棒」は数あるドラマの中でもかなりクオリティは高いほうであるとは思うけれど、回によって波があり、脚本家によっては「これどうなんだ?」と思うようなものがたまにある。


そういう、「善悪を白黒はっきりつけてしまう」キモチ悪さを、この「昔話法廷」は語ってくれているように思う。




■ひょっとしたら「歴史」についても同じことが言えるのかも…?


ちょっと話が大きくなるが、人類の過去の「歴史」を語る上でも、同じようなことが言えるのかな、とも思ったりした。関係者の双方の意見や、その「何か」が起きるまでに何があったのかを検証しないと、本当の「全体像」は見えないのかも、とも思う。
誰かが大きい声で語った「ストーリー」だけだと、全体像が意図的にはしょられている可能性があり、本当のことが知らされないままであったりするするかもしれない。


そういう意味では、クリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」あたりも、「アメリカ人が日本人側のストーリーを描いた」って点ではこれに通じるものがあるかもしれない。


特に、戦闘行為などというような重大な出来事があった場合、その利害関係者が生きている間は、どうしてもバイアスがかからない意見や見解を語ることが難しい。
利害関係者の、「極端」で「大きい」声が次第に小さくなり、「普通の人たち」が語り始めるあたりから、ようやく全体像が見えてくる…なんてことがけっこうある。


いくつもの見方や、利害のバイアスの少ない人からの情報を総合的に集めて、いろいろと考えを巡らせる。
そして、そこから生まれる「解釈」ですら、個人差があり続け、「どれが正しい」「これは間違ってる」とは言い切れない。
それが「歴史」の持つ、重い多層性、多様性なのだと思う。




まさに「昔話法廷」の結末が「あえて語られない」のも、それを語ろうとしているのではないか、とも思う。


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